本郷和人先生、この記事をパクっていませんよね
井伊直虎について、昨年の秋以降いろいろな本や新史料が出てきて、考えあぐねているうちに年が明け、大河ドラマも始まりました。
ドラマの方はあくまでも創作と割り切って楽しめばいいのですが、まわりの歴史解説のほうで気になるものを見つけました。
東京大学史料編纂所の本郷和人先生が、産経新聞で連載しておられる「日本史ナナメ読み」で、2月2日と2月9日に「井伊直虎の謎」上下として記事を書いておられます。
http://www.sankei.com/life/news/170202/lif1702020011-n1.html
http://www.sankei.com/life/news/170209/lif1702090011-n1.html
そこでは、
- 「井伊家伝記」の史料的価値は低い
- 次郎法師とは僧侶の名ではなく、幼名である。「○○法師」という幼名の例として信長の吉法師がある。
- 直盛が1526年生まれなので、直虎を1536年頃の生まれとする今一般に言われている説ではあわない。
という考えをベースにして、さらに説を展開されておられます。
このブログのこれまでの記事を読んでいただければわかるとおり、上記の説はいずれも昨年8月段階でここで述べています。
この程度のことはご自身で考えつかれたのかもしれません。また、新聞の軽い読み物なので、逐一出典を書くほどではないのはわかります。
ただ、もしこのブログやここで引用した先行研究を参考にされたのであれば、文字数に余裕がある原稿では典拠をお示しくださいね。研究者であれば、自説と先行研究を区別して示すのは最低限のマナーですから。
次郎法師は地頭?城主?
「井伊家伝記」では、次郎法師は「地頭」であったと記されています。今回は、井伊氏の地頭とはどういう立場でどういう職務を担ったのかを考えていきます。
井伊氏は「国衆」
井伊氏のような武士は、専門用語で「国衆」と呼ばれている。
国衆とは、
・戦国大名よりも規模は小さいながらも、戦国大名と同じ権力構造にあり、独自の領国を持ち、それに対して自立的な支配を展開していた。
・戦国大名の配下にありつつも、独立的に存在した。
という存在であった。(黒田基樹『戦国大名』平凡社新書、2014年)
井伊氏の場合は、今川氏の配下にあったが、相対的に自立して領域を支配していた。
支配するとは、村から税金を徴収して、村の平和を維持し、そのためには家臣を組織して軍事力を持つという関係であった。一種の行政組織なので、政務は一族・家臣が担う。また、上級権力である大名(井伊氏の場合は今川氏)の命令であれば自分の領域に関係なくても軍事出動しなければならない。従わないことは謀叛を意味する。
つまり、地域の行政(市役所)と警察+軍隊を率いていたのが国衆といえる。次郎法師の「地頭」とは、地域行政の方を指すと考えてよいだろう。
では、当時の政務はどういう体制であったのか。断片的であるが史料からわかる。
井伊氏の体制(年表)
前後の時代も含めて、広い範囲で井伊氏の当主とそれを補佐した人物関係を年表風にしてみた。
直盛が当主の時代
天文11年(1542) 父直宗死去
~
永禄3年(1560) 桶狭間の戦いで討死
直親が当主の時代
永禄3年 (1560) 直盛死去につき、直親が当主となる
~
永禄5年(1562) 直親、討たれる
直親没後の体制① 中野・新野体制
永禄5年(1562)~ 一門の中野越後守が政務を見る。直政は新野左馬助のもとで養育される。
永禄6年(1563) 井伊直平(直盛の祖父)、今川氏真の命令により井伊谷の軍勢を率いて八幡山城主天野左衛門尉へ出兵、有玉旗屋宿で死去
*「井伊家伝記」では家老飯尾豊前守夫妻から毒茶を盛られたとするが、飯尾氏は引馬城主で直平の家老ではないので、信頼性に欠ける。
永禄7年(1564) 中野越後守・新野左馬助、今川氏真の命令により井伊谷の軍勢を率いて引馬城主飯尾豊前守へ出兵し、討死(9月18日)
直親没後の体制② 次郎法師が後見
中野越後守死去により、次郎法師を地頭と定めて直政を後見する立場になった。
永禄9年(1566) 今川氏により井伊谷に徳政が出されるが実施されず。
永禄11年(1568) 井伊谷徳政を実施するよう次郎法師が命じる。
同年 直政、鳳来寺に逃れる(小野但馬守りの逆心?が理由)
徳川の侵攻
永禄11年(1568)12月 徳川家康が井伊谷に侵攻して占領する。同時に武田信玄は駿河の今川氏真を攻撃して滅ぼす。
元亀3年(1572)10月 武田信玄が遠江へ侵攻し、12月の三方原の戦いで家康を破る。
直政の元服
=井伊家の人物として唯一領主である徳川氏と主従関係を結んだことから、直政が井伊家を代表する人物とみなされることになる
井伊氏の体制(考察)
以上からわかることは、直盛・直親といった当主が支配しているときは行政・軍事両方を掌握していたが、当主がいなくなると、代理の者が部分ごとを担当することになった。軍事の面は高齢の井伊一族である直平、直平没後は親族である中野越後守・新野左馬助が担い、井伊谷の軍勢を率いて出陣した。当主に血縁的に近い人物で成人の男子が当主の代理を務めた。
行政面は、永禄7年(1564)から永禄11年(1568)の間、次郎法師が当主であった。
その時の政務を担った人物関係を見ていくと、「井伊谷徳政」に関する文書に名前の出てくる人物として、
・家老 小野但馬守(徳政推進派)
・井伊主水佑 (徳政停止派)
がいる。井伊主水佑により、今川が出した徳政令の執行が停止されていたが、それを不服に思った百姓らが今川方に訴え、今川家臣の関口氏経が徳政実施に向けて働きかけた。その中の文書に、
二郎殿のまへをなにかとおほしめし候やうに候間、小但へ申候而、次郎殿御存分しかとききととけ候て、早々被仰付候而尤之由、次郎殿より関越へ被仰候様ニ、小但へ可被申候(匂坂直興書状、永禄11年6月30日付、蜂前神社文書)
とある。意味は、
関口が「二郎(次郎)殿の方をなんとかしてほしい」と思っておられるようなので、(宛先の祝田禰宜から)小但(小野但馬守)へ申して、次郎殿が徳政実施の考えをしかと聞き届けて、「早々に徳政を仰せ付けてくださるのがもっともである」と次郎殿から関口へ仰せられるように、小野へ申してください。
というものである。これは、小野但馬守が次郎法師に対して徳政実施の必要性を説くことで、次郎法師がそれに賛成して徳政を命令する意向を関口越前守に伝えることを、小野へ求めているということである。
ここから、家老小野但馬守は当主次郎法師に対して、徳政実施と政策判断するよう説得し、その考えを聞き出して今川方に伝える立場にあったことがわかる。家老は、当主に対面して説明し、当主の決断を導き出した。もちろん判断力のある当主は、家臣同士の異なる意見を聞いてよりよい方を選択しただろうが、判断力がなくても一人の家老の言うことをそのまま受け入れることで当主の仕事は果たせた。
次郎法師が、いろいろな家臣の意見を聞いて自分で判断したのか、重臣の言うことはそのまま受け入れる状況であったのかは不明である。この書状の内容を見る限り、次郎法師は小野但馬守の意見をすんなりと受け入れると思われていたと感じる。
なお、次郎法師を当主とする体制は家康の侵攻により終わる。井伊氏は領地を失い、次郎法師は「地頭」ではなくなったからである。少なくとも徳川家康に服属しない限り、領地支配は認められない。
次郎法師とその母は井伊谷城を出て龍潭寺内の松岳院に入った。
参考資料
「井伊家伝記」の信憑性
前回は、「井伊家伝記」に記される次郎法師(直虎)について確認したところ、史実的には疑問点がいくつもあることを指摘しました。では、「井伊家伝記」とはどういう史料なのかを見ていきます。
「井伊家伝記」については、最近、注目される研究が発表されました。
野田浩子氏による「『井伊家伝記』の史料的性格」(彦根城博物館研究紀要26号、2016年)です。今回はこの論文の内容にもとづいて考えます。
「井伊家伝記」の基本情報
筆者は、龍潭寺の住職である祖山和尚。龍潭寺は井伊家出身地の井伊谷(静岡県浜松市)にある井伊家の菩提寺。
作成年代は、享保15年(1730年)。彦根藩の家老木俣半弥の求めに応じて著した。
2冊本で、64の話がある。平安時代の井伊家初代とされる共保(ともやす)が井伊谷の井戸から生まれたという話からはじまり、戦国時代の今川氏との関係、直政が徳川家康に仕えた話、最後の方には祖山が共保出生の井戸を修理したり、井戸をめぐって訴訟した話も述べられている。
史実としては間違いも多い
「井伊家伝記」の内容は、史実と照らし合わせると、間違っている内容がいくつもある。
その1 井伊直平(次郎法師の曾祖父)が今川義元に命じられて引馬(のちの浜松)城の城主となり飯尾氏を家老としたというが、実際には引馬城主は飯尾氏で、飯尾氏は今川氏の家臣で井伊氏と主従関係はない。
その2 井伊氏は元からの領地6万石に、引馬に新しく今川から与えられた6万石を加えて、12万石を領したとあるが、まずこの頃は貫高制なので土地の単位は「石」ではない。たとえ江戸時代の石高で表記したとしても、12万石は遠江国全体の約半分を占めることになり、多すぎる。
*江戸時代の石高だと、遠江国全体で255,160石(慶長3年検地)、引佐郡は1万2千石余り(正保郷帳)。
その3 戦国時代の龍潭寺住職である南渓和尚を井伊直平の息子、つまり井伊家の一族とする。しかし、南渓和尚過去帳には、直平とはちがう南渓の父の戒名が記されているので、直平の子ではない。
「井伊家伝記」作成の意図
このように史実と違う点が多いのはなぜなのか、「井伊家伝記」がつくられた意図を考えてみる。
「井伊家伝記」が完成したのは、享保15年(1730年)だが、祖山和尚は正徳元年(1711年)に江戸に出てきたときに彦根藩邸を何度も訪問し、井伊家の先祖の話をしている。この年、将軍代替わりに伴う幕府の朱印改めのため、祖山は江戸に行き、あわせて井伊共保出生の井戸の帰属をめぐって隣村の神宮寺村の正楽寺と争い幕府寺社奉行に訴訟を起こしており、江戸に長期滞在した。このとき祖山は、直平や次郎法師の寄進状なども挙げて、戦国時代には龍潭寺が井伊家から庇護を得ていたと述べている。これは、訴訟で自分の主張を裏付ける根拠でもあり、江戸時代の井伊家を見方につけるために関係の深さを述べるものでもあった。ここで語られた共保や戦国時代の人物についての内容が、「井伊家伝記」のベースとなっている。
訴訟は、井伊家を味方につけたためもあってか、龍潭寺が勝利した。訴訟が終わってからも、祖山和尚は何度も彦根藩主井伊直興のもとを訪問し、井伊家先祖の墓所を整備することなどを提案し、その資金を獲得している。
「井伊家伝記」の基本的な考えは、戦国時代、井伊氏が活躍して直政が育ち、徳川家康の家臣になって出世したが、その根底には、戦国時代の井伊氏が龍潭寺に土地を寄進するなど帰依してきたからである。戦国時代の井伊氏には数々の困難があったが、南渓和尚が直政の成長に貢献した、というものである。
祖山は戦国時代の話を通じて、今(江戸時代中期)の井伊家に対して、井伊家は先祖供養を尽くすのがよいということと、先祖の菩提寺である龍潭寺を大切にするように、という主張をしていることになる。
一言で言うと、彦根藩主が龍潭寺に対して、先祖供養のため寄進しようと思う動機づけのために作られた話をまとめたのが「井伊家伝記」といえる。
「井伊家伝記」の見方
このような経緯を知ると、「井伊家伝記」が史実に正確でない内容であったとしても仕方ないと思える。
150年前の歴史を伝承をもとに述べているが、現代のように便利な年表や辞書も無いため、史実と違うことが言い伝えられていて、それを信用していたとしても致し方ない。先祖の活躍を述べるため、話が変化していったり、誇張されることもあり得る。
特に「井伊家伝記」の場合、明確な意図をもって井伊家先祖と南渓和尚を讃えようとしている。そのため、引馬城主、12万石といった、「盛った」話となってしまっている。
これをふまえて次郎法師の話を振り返ると、次郎法師の出家は直親のためであり、命名したのは南渓和尚とする。次郎法師が地頭職を継ぐことも、次郎法師の母と南渓和尚が相談して決めたという。直政に対しては、幼少期に養母としてその成長に尽くしたとする。
このように、直政の成功の影に彼女がいたことを示し、また南渓の貢献も述べる。
これらがすべて虚構とまでは言えないかもしれない。しかし、「井伊家伝記」は虚実が混ざっていることをふまえると、次郎法師についての叙述も史実ではないことが交じっていると考えるべきであろう。
今も、史実をベースにして、その隙間を作者の想像で描く歴史小説が人気があり、たくさん作られ、読まれているが、「井伊家伝記」も300年前につくられた「歴史小説」として、史実かどうか気にせず楽しんで読むならいいのかもしれない。
「井伊家伝記」の内容に対する疑問
前回は、「井伊家伝記」に記される次郎法師の記事を確認しましたが、今回はその内容を史実と照らし合わせていきます。
「井伊家伝記」の記事を年表風にしてみた
- 天文13年(1544年)12月23日、井伊直満・直義死去
- これを受けて、直盛娘が剃髪、出家。直盛夫婦は、将来は亀之丞と娘を夫婦にしようとしていた(2人はいいなずけであった)が、亀之丞が信州へ亡命したので、娘は菩提の心を深く思い、出家した。
父母は菩提寺の南渓和尚に対し、彼女に尼の名を付けないようにと願ったが、彼女はもはや出家したのでぜひとも尼の名を付けてほしいと頼み、和尚は井伊家惣領の「備中次郎」の名から取り、僧俗を兼ねた「次郎法師」と名づけた。
- 永禄3年(1560年)、桶狭間の戦い。直盛が討死する。これにより、直親が井伊家の当主となる。
- 永禄5年(1562年)、直親、討たれる。これにより、次郎法師が井伊家領地の地頭職を務める。
- 永禄8年(1565年)、次郎法師が南渓和尚に宛てた寄進状を出す。
*一部、前回引用した以外の内容もありますが、すべて「井伊家伝記」の記述をもとにしています。
「井伊家伝記」の内容に対する疑問
「井伊家伝記」の描く次郎法師の生涯は、許嫁との別れ、両親との対立、元許嫁が別の娘と結婚、彼の死後その忘れ形見の養母となる、といったドラマチックな内容にあふれています。さすが大河ドラマが目をつけただけある、と思います。
しかし、内容を詳細に見ていき、当時の社会のあり方に照らし合わせてみると、いくつも疑問点が出てきました。
- 次郎法師が出家した年齢について。
まず、直盛・直親・次郎法師の年齢(数え年)を確認します。
直盛は、永禄3年(1560年)に35歳で死去しているので、大永6年(1526年)生まれ。
根拠:前回の参考資料にあげた野田氏論文で、「井伊年譜」に35歳または55歳で死去したとあるが、55歳だと祖父の直平の年齢とあわないことから、35歳と考えるのがふさわしいとある。
直親は、永禄3年(1560年)のとき25歳なので(「井伊家伝記」に、永禄3年が25歳の厄年とある)、天文5年(1536年)生まれ。
次郎法師の生年は、不詳。
直親が信州へ逃亡した天文14年(1545年)の年齢は、直盛20歳、直親10歳。では、このとき直盛の娘である次郎法師は何歳?
20歳の父の子どもなので、幼児のはず。少なくとも、自分の意志で親の反対をはねのけて出家を実行できる年齢に達しているはずがないのでは? - 天文14年段階で直親と直盛娘は許嫁であったのか?
上記1.と関わってくるが、この年齢であればこの先直盛に男子が生まれる可能性がある。結果として直盛に男子はなく、次郎法師が嫡女となった。それが確定した後ならば娘に一族の男子を婿に迎えて家督を相続するという方法は自然である。しかし、嫡男が生まれる可能性がある時点で、幼い娘と従兄弟の婚約を整える必要はあるのか。 - 父母の反対を押し切って出家できるのか?
「井伊家伝記」では、「剃髪した姿を見た父母は尼の名を付けることを反対した」とあるが、そもそも幼い子どもが親の了承もなく出家できるのか?
出家するには僧侶が導師となるが、僧侶も親の同意を得てからにするのでは?
特に、直盛の子どもは彼女しかいないので、亀之丞がいなくなったとしても、誰かを養子に迎えて家を継ぐべき立場にある。それなのに出家することは、井伊家の相続の面から考えても許されることではない。
あるいは、発作的に剃髪し、なだめるために一旦は出家をゆるしても、還俗することも可能であるのに、出家したまま生涯を終えたのは何か他に理由があるのではないか。
そもそも、許嫁が死んだわけでもないのに「菩提の心」で出家するとはどういうことか? - 出家した人に「法師」という名をつけるのか?
僧の呼び名で○○法師というのはある。例えば、百人一首の歌人で西行法師とか寂蓮法師など。でも名前は西行、寂蓮であって、法師は他人が呼ぶときにつける呼称のはず。僧の自称(署名するときの名前など)に「法師」まで含むことはあるのだろうか?
一方、戦国時代の男子の幼名に○○法師というのはある。例えば、織田信長の幼名は吉法師、その嫡孫で清洲会議で跡継ぎに決まったのは三法師。
・・・男子の幼名に○○法師を使うという指摘は、歴史愛好家の方のブログで読んだことがあって、今回、確認しようと探しましたが、見つかりませんでした。その方は、次郎法師は直政の幼名ではないかと推測しておられました。
これらの点を考えあわせると、「井伊家伝記」の内容をそのまま史実として受け取るのはいかがなものか、という思いにいたりました。
そこで、次は「井伊家伝記」そのものは信頼できる史料なのか、という点を考えたいと思います。
「井伊家伝記」に記される次郎法師
次郎法師について、もっとも具体的に描かれているのは「井伊家伝記」です。
大河ドラマで描かれる直虎の人物像の元ネタもここに見られます。
そこで、今回は「井伊家伝記」の本文を示し、次郎法師についてどのように記されているのかを確認したいと思います。
「井伊家伝記」乾冊9話「井伊彦次郎直満・平次郎直義傷害の事」より、内容抜粋
天文10年(1541)頃より甲州武田信玄の指図により、その家臣が遠江との境、井伊家の領地を横領したことから、井伊彦次郎直満と同平次郎直義が武田の家臣に挑むため武力の支度をしていたところ、井伊直盛の家老の小野和泉守が亀之丞(直親)を養子とすることで遺恨があり、今川義元に両名が軍謀を企てていると讒言した。両名は駿河に下向し、天文13年12月23日に殺された。
*井伊直盛は井伊家当主。次郎法師の父。
*井伊直満と直義は兄弟。直盛の叔父。
「井伊家伝記」乾冊10話「井伊彦次郎実子亀之丞信州落の事、ならびに今村藤七郎忠節の事」より、内容抜粋
井伊彦次郎直満・同平次郎直義が殺された後、小野和泉守が駿河より帰国し、直満の実子である亀之丞を失い申すようにとの今川義元よりの命令があったと言ったので、今村藤七郎(彦次郎の家老)がかますに入れて隠し背負って井伊谷山中の黒田郷に忍んでいたところ、小野和泉守が尋ねてきたので、近所に隠しておくのはできないと、龍潭寺の南渓和尚と相談して信州伊奈郡市田郷松源寺へ落ちて行った。松源寺は南渓和尚の師匠の伝法の寺なので南渓和尚より書状を遣わして、この寺を使者として亀之丞は信州に12年隠れていた。
「井伊家伝記」乾冊11話「井伊信濃守直盛公息女次郎法師遁世の事、ならびに次郎法師と申す名の事」読み下し文
メインの文章なので、原文の読み下しを出しました。現代語訳だと伝わらない語彙などもあると思うので、念のため。後ろに現代語訳も示しています。
井伊信濃守直盛公息女壱人これ有り、両親御心入には、時節をもって亀之丞(井伊直満息男、のちの直親)を養子になされ、次郎法師と夫婦になさるべき御約束に候ところに、亀之丞信州へ落ち行き候故、御菩提の心深く思し召し、南渓和尚の弟子に御成なされ、剃髪なされ候、両親御なげきにて、一度は亀之丞と夫婦になさるべきに、様を替え候とて尼の名をは付け申すまじき旨、南渓和尚に仰せ渡され候故、次郎法師は最早出家に成り申し候上は是非に尼の名付け申したきと、親子の間黙止難く、備中次郎と申す名は井伊家惣領の名、次郎法師は女にこそあれ井伊家惣領に生れ候間、僧俗の名を兼ねて次郎法師と是非なく南渓和尚御付けなされ候名也、右次郎法師は井伊肥後守直親傷害後直政公未だ幼年故、井伊家領地地頭職御勉めなされ候<井伊保近所瀬戸村保久に下され候家康公御判物地頭次郎法師并主水助一筆明鏡之上と申す御文言これ有り>、永禄八年乙丑、直政公五歳の節寄進状御認め、南渓和尚へ御渡しなされ候、その節地頭御勤め故右寄進状次郎法師名判これ有り、次郎法師は直政公実の叔母にて養母故、直政公御幼年の中より御世話なされ候、殊更天正三年権現様へ御出勤の節御衣装等迄御仕立遣わされ候、龍潭寺中松岳院と申庵に御老母祐椿尼公と一所に御座なされ候、天正十年午八月廿六日に御遠行、法名妙雲院殿月船祐円大姉
「井伊家伝記」乾冊11話「井伊信濃守直盛公息女次郎法師遁世の事、ならびに次郎法師と申す名の事」内容
井伊信濃守直盛公には息女が一人いた。両親の考えでは、よい時になれば亀之丞を養子にして次郎法師と夫婦にされる約束であったところ、亀之丞が信州へ落ちて行ったので、次郎法師は菩提の心深く思われて、南渓和尚の弟子になり、剃髪された。両親は嘆いて、一度は亀之丞と夫婦になるはずであったのに、姿を変えたとしても尼の名は付けてはいけないと南渓和尚に仰せ渡され、一方、次郎法師はもはや出家の身になった上は是非とも尼の名を付けてほしいと南渓に伝えたので、南渓は親子の対立をそのままにしておけず、備中次郎という名は井伊家の惣領の名前なので、次郎法師は女ではあるが井伊家の惣領に生まれたので、僧俗の名を兼ねて次郎法師という名を仕方なく南渓和尚が名づけた。次郎法師は井伊直親が亡くなった後、直政公がまだ幼年のため、井伊家領地の地頭職を務められた。永禄8年、直政公が5歳の時、寄進状を書き、南渓和尚へ渡された。その節地頭を務めていたので、この寄進状に次郎法師の名と判がある。次郎法師は直政公の実の叔母で養母なので、直政公が幼年の時より世話なされた。特に天正3年、直政が家康の元へ出勤する節には衣装等を仕立てて遣わされた。龍潭寺の中の松岳院という庵に老母の祐椿尼と一所におられた。天正10年8月26日死去。法名妙雲院殿月船祐円大姉
「井伊家伝記」乾冊25話「次郎法師地頭職の事」より、内容抜粋
中野信濃守は、井伊保を預かり政務をなされていたところ討死(永禄7年9月15日、引馬城東天間橋で敗軍)の後、地頭がいなくなった。これにより直盛公後室と南渓和尚が相談して、次郎法師を地頭と定め、直政公の後見をなされ、御家を相続なさるべき旨を相談され、次郎法師を地頭と定めた。その節、井伊家の一族・家門は方々で戦死し、直政公一人だけで特に幼年なので、井伊家の相続を大切に思われたのである。
「井伊家伝記」写本画像
1 龍潭寺所蔵本
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/Home/2213005100/topg/naotora.html
2 静岡県立図書館所蔵本
http://base1.nijl.ac.jp/infolib/meta_pub/CsvDefault.exe
参考文献
野田浩子「『井伊家伝記』の史料的性格」(彦根城博物館研究紀要26、2016年)
実在の確認
まず、「井伊直虎」とされる人物の存在について、確認していきたいと思います。
父祖について
直虎は、井伊直盛の娘ということですが、直盛は実在する人物です。
井伊氏は、遠江国井伊谷城(静岡県浜松市)の城主・領主で、駿河の戦国大名今川義元配下にあった国衆ということは間違いないです。直盛は、桶狭間の戦いで今川隊の先鋒を務めて討死しています。
この時、直盛は井伊氏の当主で、祖父直平は健在、父直宗は死去、子どもは娘しかいなかったようです。江戸時代初期につくられた井伊家の系図(「寛永諸家系図伝」)、龍潭寺過去帳、「井伊家伝記」の記述を総合して判断できます。
名前
直盛に娘がいたことは間違いないでしょう。彼女の名前を確認していきます。
幼名・通称(女性としての一般的な呼び名)は、記録では見つけられませんでした。当時の女性の通称が記録で残るのは大変珍しいことなので、判明しなくてもしかたないです。
法名は、月泉祐円禅定尼(龍潭寺過去帳)、妙雲院殿月船祐円大姉(「井伊家伝記」)
なお逝去した日は、「井伊家伝記」は天正10年8月26日、龍潭寺過去帳は8月26日とあり(過去帳は年代が書き込まれている方が例外)、法名が微妙に違いますが、同一人物で問題ないでしょう。
ちなみに生年もわかりません。これも、当時の記録に残ることは少なく、わからないのが通常です。
いつになれば「直虎」が出てくるのかとお思いでしょうが・・・、もう一つ重要な名前があります。
それは「次郎法師」という名前です。実は、「直虎」という名前が書かれた資料は、1点しか確認できていません(永禄11年11月9日付、次郎直虎・関口氏経連署状、浜松市・蜂前神社所蔵)。そこに「次郎直虎」とあることから、他の資料で「次郎法師」と書かれている人物を「直虎」と呼んでいるのです。
次郎法師について
次郎法師が実在したことは確認できます。
同時代に出された次の古文書の中で、次郎法師が出したり、本文中に登場します。
- 永禄8年9月15日付 次郎法師置文 龍潭寺南渓和尚宛て(浜松市・龍潭寺所蔵)
- 永禄11年8月3日付 匂坂直興書状(蜂前神社文書)の本文中、「井次」「次郎殿」
- 同年8月4日付 関口氏経書状(蜂前神社文書)の宛名が「井次」
- 同年9月14日付 今川氏真判物(瀬戸文書)の本文中に「次郎法師」
(いずれも『静岡県史資料編』に翻刻掲載。1.~3.は画像公開あり→「参考資料」参照)
1. は次郎法師が差し出した文書で、黒印をおした文書です。
2.~4.は、上記の「直虎」文書とともに、有名な「井伊谷徳政」の最終段階で出された文書です。この一件に関わって出された数通の文書の中に、「次郎」や「次郎法師」の名前があります。
このように出てくる「次郎」や「次郎法師」は、本文中から井伊氏の当主と理解できます。井伊氏の上級権力である戦国大名の今川氏真が「次郎法師」と呼んでいることから、「次郎法師」が正式な呼び名で、略して「次郎」とも呼ばれていたことがわかります。
つまり、この頃の井伊氏の当主として「井伊次郎法師」という人物がいたことはまちがいないでしょう。
では、直盛の娘が次郎法師でいいのでしょうか?
話が複雑になるので、日を改めて考えたいと思います。
今日のまとめ
参考資料
次郎法師置文 龍潭寺南渓和尚宛て 龍潭寺文書
蜂前神社文書 永禄11年8月3日付 匂坂直興書状
同 同年8月4日付 関口氏経書状
同 同年11月9日付 次郎直虎・関口氏経連署状
いずれも、ADEAC(アデアック):デジタルアーカイブシステムで画像が公開されています。
はじめに
2017年の大河ドラマに決まり、急に注目されてきた「井伊直虎」。これまで歴史上で無名だっただけに、どこまでが史実なのか、よくわかりません。
直虎について同時代に書かれた記録・歴史資料は、歴史上の有名人やこれまでの大河ドラマ主人公とくらべても、極端に数少ないという特徴があります。さらに、そこに書かれていることがすべて真実かどうかという点さえ見極められていないのが現状です。調べていくと、後世に創作された「あやしい資料」(ねつ造?した資料)もあるように思われます。
そこで、元になった史料を検討し、史実として明らかな部分とそうで考えてみたいと思います。できるだけ、出典を明らかにして論理的に記しますので、小難しくなるかもしれません。