井伊直虎 ~史実から謎を解く~

2017年の大河ドラマの主人公に決定した井伊直虎。実は限られた史料から人物像が「創作」されているようです。ここでは、当時の記録を忠実に読み解き、直虎の人物を追っていきます。

実在の確認

まず、「井伊直虎」とされる人物の存在について、確認していきたいと思います。

 

父祖について

直虎は、井伊直盛の娘ということですが、直盛は実在する人物です。

井伊氏は、遠江国井伊谷城(静岡県浜松市)の城主・領主で、駿河戦国大名今川義元配下にあった国衆ということは間違いないです。直盛は、桶狭間の戦いで今川隊の先鋒を務めて討死しています。

この時、直盛は井伊氏の当主で、祖父直平は健在、父直宗は死去、子どもは娘しかいなかったようです。江戸時代初期につくられた井伊家の系図(「寛永諸家系図伝」)、龍潭寺過去帳、「井伊家伝記」の記述を総合して判断できます。

 

名前 

直盛に娘がいたことは間違いないでしょう。彼女の名前を確認していきます。

幼名・通称(女性としての一般的な呼び名)は、記録では見つけられませんでした。当時の女性の通称が記録で残るのは大変珍しいことなので、判明しなくてもしかたないです。

法名は、月泉祐円禅定尼(龍潭寺過去帳)、妙雲院殿月船祐円大姉(「井伊家伝記」)

なお逝去した日は、「井伊家伝記」は天正10年8月26日、龍潭寺過去帳は8月26日とあり(過去帳は年代が書き込まれている方が例外)、法名が微妙に違いますが、同一人物で問題ないでしょう。

ちなみに生年もわかりません。これも、当時の記録に残ることは少なく、わからないのが通常です。

 

いつになれば「直虎」が出てくるのかとお思いでしょうが・・・、もう一つ重要な名前があります。

それは「次郎法師」という名前です。実は、「直虎」という名前が書かれた資料は、1点しか確認できていません(永禄11年11月9日付、次郎直虎・関口氏経連署状、浜松市・蜂前神社所蔵)。そこに「次郎直虎」とあることから、他の資料で「次郎法師」と書かれている人物を「直虎」と呼んでいるのです。

 

次郎法師について

次郎法師が実在したことは確認できます。

同時代に出された次の古文書の中で、次郎法師が出したり、本文中に登場します。

  1. 永禄8年9月15日付 次郎法師置文 龍潭寺南渓和尚宛て(浜松市・龍潭寺所蔵)
  2. 永禄11年8月3日付 匂坂直興書状(蜂前神社文書)の本文中、「井次」「次郎殿」
  3. 同年8月4日付 関口氏経書状(蜂前神社文書)の宛名が「井次」
  4. 同年9月14日付 今川氏真判物(瀬戸文書)の本文中に「次郎法師」
    (いずれも『静岡県史資料編』に翻刻掲載。1.~3.は画像公開あり→「参考資料」参照)

1. は次郎法師が差し出した文書で、黒印をおした文書です。

2.~4.は、上記の「直虎」文書とともに、有名な「井伊谷徳政」の最終段階で出された文書です。この一件に関わって出された数通の文書の中に、「次郎」や「次郎法師」の名前があります。

このように出てくる「次郎」や「次郎法師」は、本文中から井伊氏の当主と理解できます。井伊氏の上級権力である戦国大名今川氏真が「次郎法師」と呼んでいることから、「次郎法師」が正式な呼び名で、略して「次郎」とも呼ばれていたことがわかります。

つまり、この頃の井伊氏の当主として「井伊次郎法師」という人物がいたことはまちがいないでしょう。

では、直盛の娘が次郎法師でいいのでしょうか?

話が複雑になるので、日を改めて考えたいと思います。

 

今日のまとめ

  1. 井伊直盛の娘(生年不詳~天正10年8月26日没)が実存したことは間違いない。
  2. 永禄11年頃の井伊氏の当主は「次郎法師」であったが、これが彼女であるかどうかは次に検討する。

 

参考資料

次郎法師置文 龍潭寺南渓和尚宛て  龍潭寺文書

蜂前神社文書 永禄11年8月3日付 匂坂直興書状

同  同年8月4日付 関口氏経書

同  同年11月9日付 次郎直虎・関口氏経連署

いずれも、ADEAC(アデアック):デジタルアーカイブシステムで画像が公開されています。