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井伊直虎 ~史実から謎を解く~

2017年の大河ドラマの主人公に決定した井伊直虎。実は限られた史料から人物像が「創作」されているようです。ここでは、当時の記録を忠実に読み解き、直虎の人物を追っていきます。

「井伊家伝記」に記される次郎法師

次郎法師について、もっとも具体的に描かれているのは「井伊家伝記」です。

大河ドラマで描かれる直虎の人物像の元ネタもここに見られます。

 

そこで、今回は「井伊家伝記」の本文を示し、次郎法師についてどのように記されているのかを確認したいと思います。

 

「井伊家伝記」乾冊9話「井伊彦次郎直満・平次郎直義傷害の事」より、内容抜粋

天文10年(1541)頃より甲州武田信玄の指図により、その家臣が遠江との境、井伊家の領地を横領したことから、井伊彦次郎直満と同平次郎直義が武田の家臣に挑むため武力の支度をしていたところ、井伊直盛の家老の小野和泉守が亀之丞(直親)を養子とすることで遺恨があり、今川義元に両名が軍謀を企てていると讒言した。両名は駿河に下向し、天文13年12月23日に殺された。

 *井伊直盛は井伊家当主。次郎法師の父。

 *井伊直満と直義は兄弟。直盛の叔父。 

 

「井伊家伝記」乾冊10話「井伊彦次郎実子亀之丞信州落の事、ならびに今村藤七郎忠節の事」より、内容抜粋

井伊彦次郎直満・同平次郎直義が殺された後、小野和泉守が駿河より帰国し、直満の実子である亀之丞を失い申すようにとの今川義元よりの命令があったと言ったので、今村藤七郎(彦次郎の家老)がかますに入れて隠し背負って井伊谷山中の黒田郷に忍んでいたところ、小野和泉守が尋ねてきたので、近所に隠しておくのはできないと、龍潭寺の南渓和尚と相談して信州伊奈郡市田郷松源寺へ落ちて行った。松源寺は南渓和尚の師匠の伝法の寺なので南渓和尚より書状を遣わして、この寺を使者として亀之丞は信州に12年隠れていた。

 

「井伊家伝記」乾冊11話「井伊信濃守直盛公息女次郎法師遁世の事、ならびに次郎法師と申す名の事」読み下し文

メインの文章なので、原文の読み下しを出しました。現代語訳だと伝わらない語彙などもあると思うので、念のため。後ろに現代語訳も示しています。


井伊信濃守直盛公息女壱人これ有り、両親御心入には、時節をもって亀之丞(井伊直満息男、のちの直親)を養子になされ、次郎法師と夫婦になさるべき御約束に候ところに、亀之丞信州へ落ち行き候故、御菩提の心深く思し召し、南渓和尚の弟子に御成なされ、剃髪なされ候、両親御なげきにて、一度は亀之丞と夫婦になさるべきに、様を替え候とて尼の名をは付け申すまじき旨、南渓和尚に仰せ渡され候故、次郎法師は最早出家に成り申し候上は是非に尼の名付け申したきと、親子の間黙止難く、備中次郎と申す名は井伊家惣領の名、次郎法師は女にこそあれ井伊家惣領に生れ候間、僧俗の名を兼ねて次郎法師と是非なく南渓和尚御付けなされ候名也、右次郎法師は井伊肥後守直親傷害後直政公未だ幼年故、井伊家領地地頭職御勉めなされ候<井伊保近所瀬戸村保久に下され候家康公御判物地頭次郎法師并主水助一筆明鏡之上と申す御文言これ有り>、永禄八年乙丑、直政公五歳の節寄進状御認め、南渓和尚へ御渡しなされ候、その節地頭御勤め故右寄進状次郎法師名判これ有り、次郎法師は直政公実の叔母にて養母故、直政公御幼年の中より御世話なされ候、殊更天正三年権現様へ御出勤の節御衣装等迄御仕立遣わされ候、龍潭寺中松岳院と申庵に御老母祐椿尼公と一所に御座なされ候、天正十年午八月廿六日に御遠行、法名妙雲院殿月船祐円大姉

 

 「井伊家伝記」乾冊11話「井伊信濃守直盛公息女次郎法師遁世の事、ならびに次郎法師と申す名の事」内容

井伊信濃守直盛公には息女が一人いた。両親の考えでは、よい時になれば亀之丞を養子にして次郎法師と夫婦にされる約束であったところ、亀之丞が信州へ落ちて行ったので、次郎法師は菩提の心深く思われて、南渓和尚の弟子になり、剃髪された。両親は嘆いて、一度は亀之丞と夫婦になるはずであったのに、姿を変えたとしても尼の名は付けてはいけないと南渓和尚に仰せ渡され、一方、次郎法師はもはや出家の身になった上は是非とも尼の名を付けてほしいと南渓に伝えたので、南渓は親子の対立をそのままにしておけず、備中次郎という名は井伊家の惣領の名前なので、次郎法師は女ではあるが井伊家の惣領に生まれたので、僧俗の名を兼ねて次郎法師という名を仕方なく南渓和尚が名づけた。次郎法師は井伊直親が亡くなった後、直政公がまだ幼年のため、井伊家領地の地頭職を務められた。永禄8年、直政公が5歳の時、寄進状を書き、南渓和尚へ渡された。その節地頭を務めていたので、この寄進状に次郎法師の名と判がある。次郎法師は直政公の実の叔母で養母なので、直政公が幼年の時より世話なされた。特に天正3年、直政が家康の元へ出勤する節には衣装等を仕立てて遣わされた。龍潭寺の中の松岳院という庵に老母の祐椿尼と一所におられた。天正10年8月26日死去。法名妙雲院殿月船祐円大姉

 

 「井伊家伝記」乾冊25話「次郎法師地頭職の事」より、内容抜粋

中野信濃守は、井伊保を預かり政務をなされていたところ討死(永禄7年9月15日、引馬城東天間橋で敗軍)の後、地頭がいなくなった。これにより直盛公後室と南渓和尚が相談して、次郎法師を地頭と定め、直政公の後見をなされ、御家を相続なさるべき旨を相談され、次郎法師を地頭と定めた。その節、井伊家の一族・家門は方々で戦死し、直政公一人だけで特に幼年なので、井伊家の相続を大切に思われたのである。

 

「井伊家伝記」写本画像

1 龍潭寺所蔵本

 https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/Home/2213005100/topg/naotora.html

2 静岡県立図書館所蔵本 

 国文学研究資料館 日本古典籍総合目録データベース 

 http://base1.nijl.ac.jp/infolib/meta_pub/CsvDefault.exe

 

参考文献

野田浩子「『井伊家伝記』の史料的性格」(彦根城博物館研究紀要26、2016年)