「井伊家伝記」の内容に対する疑問
前回は、「井伊家伝記」に記される次郎法師の記事を確認しましたが、今回はその内容を史実と照らし合わせていきます。
「井伊家伝記」の記事を年表風にしてみた
- 天文13年(1544年)12月23日、井伊直満・直義死去
- これを受けて、直盛娘が剃髪、出家。直盛夫婦は、将来は亀之丞と娘を夫婦にしようとしていた(2人はいいなずけであった)が、亀之丞が信州へ亡命したので、娘は菩提の心を深く思い、出家した。
父母は菩提寺の南渓和尚に対し、彼女に尼の名を付けないようにと願ったが、彼女はもはや出家したのでぜひとも尼の名を付けてほしいと頼み、和尚は井伊家惣領の「備中次郎」の名から取り、僧俗を兼ねた「次郎法師」と名づけた。
- 永禄3年(1560年)、桶狭間の戦い。直盛が討死する。これにより、直親が井伊家の当主となる。
- 永禄5年(1562年)、直親、討たれる。これにより、次郎法師が井伊家領地の地頭職を務める。
- 永禄8年(1565年)、次郎法師が南渓和尚に宛てた寄進状を出す。
*一部、前回引用した以外の内容もありますが、すべて「井伊家伝記」の記述をもとにしています。
「井伊家伝記」の内容に対する疑問
「井伊家伝記」の描く次郎法師の生涯は、許嫁との別れ、両親との対立、元許嫁が別の娘と結婚、彼の死後その忘れ形見の養母となる、といったドラマチックな内容にあふれています。さすが大河ドラマが目をつけただけある、と思います。
しかし、内容を詳細に見ていき、当時の社会のあり方に照らし合わせてみると、いくつも疑問点が出てきました。
- 次郎法師が出家した年齢について。
まず、直盛・直親・次郎法師の年齢(数え年)を確認します。
直盛は、永禄3年(1560年)に35歳で死去しているので、大永6年(1526年)生まれ。
根拠:前回の参考資料にあげた野田氏論文で、「井伊年譜」に35歳または55歳で死去したとあるが、55歳だと祖父の直平の年齢とあわないことから、35歳と考えるのがふさわしいとある。
直親は、永禄3年(1560年)のとき25歳なので(「井伊家伝記」に、永禄3年が25歳の厄年とある)、天文5年(1536年)生まれ。
次郎法師の生年は、不詳。
直親が信州へ逃亡した天文14年(1545年)の年齢は、直盛20歳、直親10歳。では、このとき直盛の娘である次郎法師は何歳?
20歳の父の子どもなので、幼児のはず。少なくとも、自分の意志で親の反対をはねのけて出家を実行できる年齢に達しているはずがないのでは? - 天文14年段階で直親と直盛娘は許嫁であったのか?
上記1.と関わってくるが、この年齢であればこの先直盛に男子が生まれる可能性がある。結果として直盛に男子はなく、次郎法師が嫡女となった。それが確定した後ならば娘に一族の男子を婿に迎えて家督を相続するという方法は自然である。しかし、嫡男が生まれる可能性がある時点で、幼い娘と従兄弟の婚約を整える必要はあるのか。 - 父母の反対を押し切って出家できるのか?
「井伊家伝記」では、「剃髪した姿を見た父母は尼の名を付けることを反対した」とあるが、そもそも幼い子どもが親の了承もなく出家できるのか?
出家するには僧侶が導師となるが、僧侶も親の同意を得てからにするのでは?
特に、直盛の子どもは彼女しかいないので、亀之丞がいなくなったとしても、誰かを養子に迎えて家を継ぐべき立場にある。それなのに出家することは、井伊家の相続の面から考えても許されることではない。
あるいは、発作的に剃髪し、なだめるために一旦は出家をゆるしても、還俗することも可能であるのに、出家したまま生涯を終えたのは何か他に理由があるのではないか。
そもそも、許嫁が死んだわけでもないのに「菩提の心」で出家するとはどういうことか? - 出家した人に「法師」という名をつけるのか?
僧の呼び名で○○法師というのはある。例えば、百人一首の歌人で西行法師とか寂蓮法師など。でも名前は西行、寂蓮であって、法師は他人が呼ぶときにつける呼称のはず。僧の自称(署名するときの名前など)に「法師」まで含むことはあるのだろうか?
一方、戦国時代の男子の幼名に○○法師というのはある。例えば、織田信長の幼名は吉法師、その嫡孫で清洲会議で跡継ぎに決まったのは三法師。
・・・男子の幼名に○○法師を使うという指摘は、歴史愛好家の方のブログで読んだことがあって、今回、確認しようと探しましたが、見つかりませんでした。その方は、次郎法師は直政の幼名ではないかと推測しておられました。
これらの点を考えあわせると、「井伊家伝記」の内容をそのまま史実として受け取るのはいかがなものか、という思いにいたりました。
そこで、次は「井伊家伝記」そのものは信頼できる史料なのか、という点を考えたいと思います。