井伊直虎 ~史実から謎を解く~

2017年の大河ドラマの主人公に決定した井伊直虎。実は限られた史料から人物像が「創作」されているようです。ここでは、当時の記録を忠実に読み解き、直虎の人物を追っていきます。

「井伊家伝記」の信憑性

前回は、「井伊家伝記」に記される次郎法師(直虎)について確認したところ、史実的には疑問点がいくつもあることを指摘しました。では、「井伊家伝記」とはどういう史料なのかを見ていきます。

「井伊家伝記」については、最近、注目される研究が発表されました。

野田浩子氏による「『井伊家伝記』の史料的性格」(彦根城博物館研究紀要26号、2016年)です。今回はこの論文の内容にもとづいて考えます。

 

「井伊家伝記」の基本情報

筆者は、龍潭寺の住職である祖山和尚。龍潭寺は井伊家出身地の井伊谷(静岡県浜松市)にある井伊家の菩提寺

作成年代は、享保15年(1730年)。彦根藩の家老木俣半弥の求めに応じて著した。

2冊本で、64の話がある。平安時代の井伊家初代とされる共保(ともやす)が井伊谷の井戸から生まれたという話からはじまり、戦国時代の今川氏との関係、直政が徳川家康に仕えた話、最後の方には祖山が共保出生の井戸を修理したり、井戸をめぐって訴訟した話も述べられている。

 

史実としては間違いも多い

「井伊家伝記」の内容は、史実と照らし合わせると、間違っている内容がいくつもある。

その1 井伊直平(次郎法師の曾祖父)が今川義元に命じられて引馬(のちの浜松)城の城主となり飯尾氏を家老としたというが、実際には引馬城主は飯尾氏で、飯尾氏は今川氏の家臣で井伊氏と主従関係はない。

その2 井伊氏は元からの領地6万石に、引馬に新しく今川から与えられた6万石を加えて、12万石を領したとあるが、まずこの頃は貫高制なので土地の単位は「石」ではない。たとえ江戸時代の石高で表記したとしても、12万石は遠江国全体の約半分を占めることになり、多すぎる。

*江戸時代の石高だと、遠江国全体で255,160石(慶長3年検地)、引佐郡は1万2千石余り(正保郷帳)。

その3 戦国時代の龍潭寺住職である南渓和尚を井伊直平の息子、つまり井伊家の一族とする。しかし、南渓和尚過去帳には、直平とはちがう南渓の父の戒名が記されているので、直平の子ではない。

 

「井伊家伝記」作成の意図

このように史実と違う点が多いのはなぜなのか、「井伊家伝記」がつくられた意図を考えてみる。

「井伊家伝記」が完成したのは、享保15年(1730年)だが、祖山和尚は正徳元年(1711年)に江戸に出てきたときに彦根藩邸を何度も訪問し、井伊家の先祖の話をしている。この年、将軍代替わりに伴う幕府の朱印改めのため、祖山は江戸に行き、あわせて井伊共保出生の井戸の帰属をめぐって隣村の神宮寺村の正楽寺と争い幕府寺社奉行に訴訟を起こしており、江戸に長期滞在した。このとき祖山は、直平や次郎法師の寄進状なども挙げて、戦国時代には龍潭寺が井伊家から庇護を得ていたと述べている。これは、訴訟で自分の主張を裏付ける根拠でもあり、江戸時代の井伊家を見方につけるために関係の深さを述べるものでもあった。ここで語られた共保や戦国時代の人物についての内容が、「井伊家伝記」のベースとなっている。

訴訟は、井伊家を味方につけたためもあってか、龍潭寺が勝利した。訴訟が終わってからも、祖山和尚は何度も彦根藩井伊直興のもとを訪問し、井伊家先祖の墓所を整備することなどを提案し、その資金を獲得している。

 

「井伊家伝記」の基本的な考えは、戦国時代、井伊氏が活躍して直政が育ち、徳川家康の家臣になって出世したが、その根底には、戦国時代の井伊氏が龍潭寺に土地を寄進するなど帰依してきたからである。戦国時代の井伊氏には数々の困難があったが、南渓和尚が直政の成長に貢献した、というものである。

祖山は戦国時代の話を通じて、今(江戸時代中期)の井伊家に対して、井伊家は先祖供養を尽くすのがよいということと、先祖の菩提寺である龍潭寺を大切にするように、という主張をしていることになる。

一言で言うと、彦根藩主が龍潭寺に対して、先祖供養のため寄進しようと思う動機づけのために作られた話をまとめたのが「井伊家伝記」といえる。

 

「井伊家伝記」の見方

このような経緯を知ると、「井伊家伝記」が史実に正確でない内容であったとしても仕方ないと思える。

150年前の歴史を伝承をもとに述べているが、現代のように便利な年表や辞書も無いため、史実と違うことが言い伝えられていて、それを信用していたとしても致し方ない。先祖の活躍を述べるため、話が変化していったり、誇張されることもあり得る。

特に「井伊家伝記」の場合、明確な意図をもって井伊家先祖と南渓和尚を讃えようとしている。そのため、引馬城主、12万石といった、「盛った」話となってしまっている。

 

これをふまえて次郎法師の話を振り返ると、次郎法師の出家は直親のためであり、命名したのは南渓和尚とする。次郎法師が地頭職を継ぐことも、次郎法師の母と南渓和尚が相談して決めたという。直政に対しては、幼少期に養母としてその成長に尽くしたとする。
このように、直政の成功の影に彼女がいたことを示し、また南渓の貢献も述べる。

これらがすべて虚構とまでは言えないかもしれない。しかし、「井伊家伝記」は虚実が混ざっていることをふまえると、次郎法師についての叙述も史実ではないことが交じっていると考えるべきであろう。

 

今も、史実をベースにして、その隙間を作者の想像で描く歴史小説が人気があり、たくさん作られ、読まれているが、「井伊家伝記」も300年前につくられた「歴史小説」として、史実かどうか気にせず楽しんで読むならいいのかもしれない。