井伊直虎 ~史実から謎を解く~

2017年の大河ドラマの主人公に決定した井伊直虎。実は限られた史料から人物像が「創作」されているようです。ここでは、当時の記録を忠実に読み解き、直虎の人物を追っていきます。

次郎法師は地頭?城主?

「井伊家伝記」では、次郎法師は「地頭」であったと記されています。今回は、井伊氏の地頭とはどういう立場でどういう職務を担ったのかを考えていきます。

 

井伊氏は「国衆」

井伊氏のような武士は、専門用語で「国衆」と呼ばれている。
国衆とは、
戦国大名よりも規模は小さいながらも、戦国大名と同じ権力構造にあり、独自の領国を持ち、それに対して自立的な支配を展開していた。
戦国大名の配下にありつつも、独立的に存在した。
という存在であった。(黒田基樹戦国大名平凡社新書、2014年)

井伊氏の場合は、今川氏の配下にあったが、相対的に自立して領域を支配していた。
支配するとは、村から税金を徴収して、村の平和を維持し、そのためには家臣を組織して軍事力を持つという関係であった。一種の行政組織なので、政務は一族・家臣が担う。また、上級権力である大名(井伊氏の場合は今川氏)の命令であれば自分の領域に関係なくても軍事出動しなければならない。従わないことは謀叛を意味する。

 

つまり、地域の行政(市役所)と警察+軍隊を率いていたのが国衆といえる。次郎法師の「地頭」とは、地域行政の方を指すと考えてよいだろう。

では、当時の政務はどういう体制であったのか。断片的であるが史料からわかる。

 

井伊氏の体制(年表)

前後の時代も含めて、広い範囲で井伊氏の当主とそれを補佐した人物関係を年表風にしてみた。

直盛が当主の時代

 天文11年(1542) 父直宗死去
  ~
 永禄3年(1560) 桶狭間の戦いで討死

 

直親が当主の時代

 永禄3年 (1560) 直盛死去につき、直親が当主となる
  ~
 永禄5年(1562) 直親、討たれる

 

直親没後の体制① 中野・新野体制

 永禄5年(1562)~ 一門の中野越後守が政務を見る。直政は新野左馬助のもとで養育される。

 永禄6年(1563) 井伊直平(直盛の祖父)、今川氏真の命令により井伊谷の軍勢を率いて八幡山城主天野左衛門尉へ出兵、有玉旗屋宿で死去
 *「井伊家伝記」では家老飯尾豊前守夫妻から毒茶を盛られたとするが、飯尾氏は引馬城主で直平の家老ではないので、信頼性に欠ける。

永禄7年(1564) 中野越後守・新野左馬助、今川氏真の命令により井伊谷の軍勢を率いて引馬城主飯尾豊前守へ出兵し、討死(9月18日)

 

直親没後の体制② 次郎法師が後見

中野越後守死去により、次郎法師を地頭と定めて直政を後見する立場になった。

永禄9年(1566) 今川氏により井伊谷に徳政が出されるが実施されず。

永禄11年(1568) 井伊谷徳政を実施するよう次郎法師が命じる。

同年 直政、鳳来寺に逃れる(小野但馬守りの逆心?が理由)

 

徳川の侵攻

永禄11年(1568)12月 徳川家康が井伊谷に侵攻して占領する。同時に武田信玄駿河今川氏真を攻撃して滅ぼす。

元亀3年(1572)10月 武田信玄遠江へ侵攻し、12月の三方原の戦いで家康を破る。

 

直政の元服

天正3年(1575) 直政は元服し、家康に仕官する

=井伊家の人物として唯一領主である徳川氏と主従関係を結んだことから、直政が井伊家を代表する人物とみなされることになる

 

井伊氏の体制(考察)

以上からわかることは、直盛・直親といった当主が支配しているときは行政・軍事両方を掌握していたが、当主がいなくなると、代理の者が部分ごとを担当することになった。軍事の面は高齢の井伊一族である直平、直平没後は親族である中野越後守・新野左馬助が担い、井伊谷の軍勢を率いて出陣した。当主に血縁的に近い人物で成人の男子が当主の代理を務めた。


行政面は、永禄7年(1564)から永禄11年(1568)の間、次郎法師が当主であった。

その時の政務を担った人物関係を見ていくと、「井伊谷徳政」に関する文書に名前の出てくる人物として、
 ・家老 小野但馬守(徳政推進派)
 ・井伊主水佑 (徳政停止派)

 がいる。井伊主水佑により、今川が出した徳政令の執行が停止されていたが、それを不服に思った百姓らが今川方に訴え、今川家臣の関口氏経が徳政実施に向けて働きかけた。その中の文書に、

二郎殿のまへをなにかとおほしめし候やうに候間、小但へ申候而、次郎殿御存分しかとききととけ候て、早々被仰付候而尤之由、次郎殿より関越へ被仰候様ニ、小但へ可被申候(匂坂直興書状、永禄11年6月30日付、蜂前神社文書)

とある。意味は、

関口が「二郎(次郎)殿の方をなんとかしてほしい」と思っておられるようなので、(宛先の祝田禰宜から)小但(小野但馬守)へ申して、次郎殿が徳政実施の考えをしかと聞き届けて、「早々に徳政を仰せ付けてくださるのがもっともである」と次郎殿から関口へ仰せられるように、小野へ申してください。

というものである。これは、小野但馬守が次郎法師に対して徳政実施の必要性を説くことで、次郎法師がそれに賛成して徳政を命令する意向を関口越前守に伝えることを、小野へ求めているということである。

ここから、家老小野但馬守は当主次郎法師に対して、徳政実施と政策判断するよう説得し、その考えを聞き出して今川方に伝える立場にあったことがわかる。家老は、当主に対面して説明し、当主の決断を導き出した。もちろん判断力のある当主は、家臣同士の異なる意見を聞いてよりよい方を選択しただろうが、判断力がなくても一人の家老の言うことをそのまま受け入れることで当主の仕事は果たせた。

次郎法師が、いろいろな家臣の意見を聞いて自分で判断したのか、重臣の言うことはそのまま受け入れる状況であったのかは不明である。この書状の内容を見る限り、次郎法師は小野但馬守の意見をすんなりと受け入れると思われていたと感じる。


なお、次郎法師を当主とする体制は家康の侵攻により終わる。井伊氏は領地を失い、次郎法師は「地頭」ではなくなったからである。少なくとも徳川家康に服属しない限り、領地支配は認められない。
次郎法師とその母は井伊谷城を出て龍潭寺内の松岳院に入った。

参考資料

阿部浩一『戦国期の徳政と地域社会』(吉川弘文館、2001年)